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酒メモ

日本酒、ワインなど、美味しいと思ったものと、観た映画などをメモ。

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Simian Mobile Disco / シミアン・モバイル・ディスコ

Simian Mobile Disco / シミアン・モバイル・ディスコ
www.simianmobiledisco.co.uk

ジェイムズ・フォードとジャス・ショウから成るイギリスのエレクトロ・デュオ。2000年にソースUKからデビューしたロック・バンド、シミアンのメンバーとして活動していた2人がバンドのシングル“La Breeze”“Never Be Alone”などをリミックスする際に用いた名義に由来している。シミアン解散後の2004年に正式なユニットとしての活動をスタートし、同年のデビュー・シングル“The Mighty Atom”以降、キツネなどからコンスタントにリリースを重ね、並行してエールやピーチズらのリミックスを手掛けていく。2007年にウィチタと契約。

Arctic Monkeys、Klaxons、Mystery Jets、Test Iciclesなどのプロデュースも手がける。


Synthesise
http://fmusictv.com/electronic_dance/004279-simian-mobile-disco---synthesise.html
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Orbital オービタル

オービタル(Orbital)は、かつて存在したイギリスのテクノユニット。フィル・ハートノル、ポール・ハートノルのハートノル兄弟から結成された。ア ンダーワールド、ケミカル・ブラザーズ、プロディジーと並び、「テクノ四天王」とも呼ばれるアーティストである。ライヴではライト付きの電飾メガネを付け てプレイするのが大きな特徴である。

1989年にイギリスで結成。1990年にリリースしたシングルChimeで一躍シーンにその名が知られ、また同曲は数多くのアーチストにリサン プリングされるなどデビュー初期からシーンに大きな影響を与えるアーチストとなる。1991年に初のアルバムOrbitalをリリースする。1993年に も同名のアルバムがリリースされる。この2つのアルバムはジャケットの色から1991年リリースのものをグリーンアルバム、1993年リリースのものをブ ラウンアルバムと呼びわけたり、またはOrbital、Orbital 2などど呼ばれている。ブラウンアルバムにはLush、Impact USA、Halcyon+on+onなど、バンドを代表する曲が多数収録されており、またアルバムの完成度からバンドのシーンにおける評価の高さが確立す ることとなる。

1994年のSnivilisation後、1995年にHalcyon+on+onが映画ハッカーのサウンドトラックに使われて以降、映画への 曲提供も増えるようになる。1996年のアルバムIn Sides収録のThe Boxや、シングルリリースのみのThe Saint、2000年にはレオナルド・ディカプリオ主演のザ・ビーチへの曲提供、2003年には映画Octaneのサントラアルバムを担当するなどし た。ゲームへも曲の提供も行われ、1995年にはP. E. T. R. O. Lをワイプアウトのゲーム中の曲として提供している。

2002年にベスト盤Work 1989-2002をリリース。そして前述のOctaneサントラリリース後の2004年6月に最後のアルバムBlue Albumをリリース。全て新曲であるが、それまでのバンドの活動を辿るような、各時期ごとの曲で構成されていた。そして同年のWIRE出演を最後に活動 を終了した。

(mixi ミュージック より)

上田泰己

生命科学者 上田泰己(うえだ ひろき)33歳
若干27歳、しかも現役大学院生の時に、日本屈指の研究機関・理化学研究所のチームリーダーに迎えられた上田。日本が期待する生命科学者のひとりだ。世界中の研究者とネットワークを結び、国内外を飛び回りながら、常時20もの研究を並行して指揮する上田に、約半年の間密着、最先端科学者の非日常的な日常を追う。生物の身体自体が時を刻んでいるという「体内時計」仕組みを解明し、未来の医療に役立てたいとしている上田。
(情熱大陸 http://www.mbs.jp/jounetsu/2009/03_01.shtml)

日経BP記事
http://www.nikkeibp.co.jp/archives/326/326385.html

フェラ・クティ(Fela Kuti)

フェラ・クティ(Fela Anikulapo Kuti, 1938年10月15日-1997年8月2日)はナイジェリア出身のミュージシャン、黒人解放運動家。ミュージシャンとしてはトランペット、ピアノ、ヴォーカルと多彩な技術を誇るマルチミュージシャンで、アフロビートの創始者として世界的に著名である。「Black President(黒い大統領)」の呼び名で知られる。

幼時~大学まで

1938年、フェラ・ランサム・クティはナイジェリアのアベオクタに生まれる。父は牧師兼教師でミュージシャンのキャノン・I・O・ランサム・クティ、母はナショナリズム運動家のフンミラヨ・アニクラポ・クティ。他に兄と弟、妹が1人ずついる。経済的には中程度以上の家庭であり、両親の影響で幼時は医学を学んでいたが、比較的早期に音楽への道を志すようになる。

[編集] クーラ・ロビトス

1958年、ロンドンのトリニティ音楽大学に入学し、単身留学する。在学中にトランペットを習得し、友人たちと「フェラ・アンド・クーラ・ロビトス」(Fela Ransome-Kuti & the Koola Lobitos) を結成する。なおこの時期に黒人差別を体感したことが、彼に生涯にわたる深い影響を及ぼすことになる。1963年、同大学卒業。21歳のときに結婚した3歳年下の女性とナイジェリアに帰国する。クーラ・ロビトスを率いて本格的に音楽活動を開始するが、金銭面でかなり苦戦する。これはナイジェリアには音楽を愛好する富裕層が少ないことが一因であった。そのため彼はガーナへツアーに旅立つ。当時は流行のハイライフ・ジャズを演奏しており、バンドは人気を獲得するが金銭面での不調は続く。1968年、アメリカツアーに向けた記者会見上で、自身の音楽を「アフロビート」と定義する。1969年、アメリカへツアーに旅立つ。しかし同国においてハイライフ・ジャズはありふれた音楽であり、聴衆の関心を集めるものではなかった。マネジメントにも恵まれず、さらに彼らは労働許可証を保持していなかったためアメリカ移民局に睨まれ、メンバーの一部が離脱するなど辛酸を舐めることになる。さらにここでも黒人差別に直面し、マルコムXやブラックパンサー党などについて学び始める。これにより彼の音楽性は輸入音楽の物真似からアフリカ土着音楽への転換と、さらに政治的メッセージの重視へと変貌を遂げる。

[編集] アフリカ70

1970年、ナイジェリアへ帰国。アフロ・スポットと名付けた会場を拠点に活動し、バンド名を「'フェラ・アンド・ナイジェリア70」'、次いで「フェラ・アンド・アフリカ70」(Fela Ransome-Kuti and the Africa '70)に改名、この頃に上記の音楽性は確立される。これが「アフロビート」の完成である。聴衆の獲得に成功し、アフロ・スポットを「アフリカ・シュライン」に改名し、以後同会場はフェラの活動本拠地となり、聖地として現在も名高い。なおシュラインは「聖堂」を意味する。政治的メッセージはより強化され、黒人の解放に加えてキリスト教、イスラム教の破棄、パン・アフリカニズムの実現をも訴えるようになる。またそれによる富裕層の圧迫も、時とともに激しさを増すようになる

1974年、弾圧はついに公権力に及び、フェラは警察の自演による大麻所持容疑と未成年者誘拐で逮捕され、カラクタ監房に2週間拘置される。しかし大麻所持は証明されず、さらにフェラの許にいた未成年の女性(実際は成年女性だった)はあくまで自身の意思による家出であることが明かされ、彼は釈放される。帰宅したフェラは自宅の周囲を高さ4mの有刺鉄線で囲み、そこを「カラクタ共和国」と命名した。彼はその場所で志を同じくして集まった仲間たちと共同生活を営み、国家との対立を一層深めるようになる。一方でカメルーンツアーを成功させるなど、商業的には絶大な成功を収めるようになる。1975年、再び逮捕された経験を元に「Expensive Shit」を、警察にカラクタ共和国を攻撃された際に負傷した経験を元に「Kalakuta Show」を発表しヒットする。彼は都合12回逮捕されるが、そのつど証拠不十分によって釈放されている。

1976年、フェラは白人に強制されていたキリスト教の洗礼名「ランサム」を捨て、フェラ・アニクラポ・クティと改名する。アニクラポは「死を操れる者」の意味。また軍隊をゾンビに喩えた屈指の代表作「Zombie」はこの年に発表された。1977年、対立はついに頂点に達し1,000人の軍隊により共和国は襲撃を受ける。建造物は放火によって消失、77歳になっていたフェラの母フンミラヨはこのとき受けた傷が元で翌年他界する。フェラは拘留され裁判が開かれるが、この公判は警察によってニューヨーク・タイムズなどの外国報道機関を追放した閉鎖的なものであった。結果的に彼は釈放されるが政府の圧力により公演会場からは締め出されてしまい、カラクタ「共和国」という呼称も禁止勧告を受ける。1978年、バンドメンバーである女性コーラス27人と合同結婚式を行う。

[編集] エジプト80

1981年、音楽活動の傍ら講演会やシンポジウムに精力的に参加するようになり、大学生などから熱烈な支持を受ける。またこの年以降、バンド名を「フェラ・アンド・エジプト80」(Fela Anikulapo Kuti and the Egypt '80) に改名する。なおこの年日本版アルバムが初めて発売され、日本における認知が深まる。1984年、為替管理違反でついに懲役10年の実刑判決を受ける。しかし刑を宣告した裁判官本人が圧力による不当な判決である旨を公表し、国際的に支援運動が展開され1986年には釈放される。1980年代には音楽にエレクトリックサウンドが導入されるようになるが、フェラの体調不良やモチベーションの低下もあり活動は停滞を始め、リリースが減少していく。

1997年8月2日、エイズによる合併症で死去。58歳。自身の音楽活動は実子のフェミ・クティ(Femi Kuti、1962年6月16日-)により受け継がれ、現在に至っている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Rachid Taha ラシッド・タハ

958年にアルジェリアで生まれ、10歳のときに家族とともにフランスに移住。
その後80年代になった頃に同じアラブ系移民たちと共に<カルト・ド・セジュール>(滞在許可証の意)というグループを結成し、プロ・デビューを果たす。
90年代にソロ・デビュー、旧友でもあるギタリスト、スティーヴ・ヒレッジのプロデュースで次々と話題作を発表。
『オレ・オレ』(95年)、『ディワン』(98年)、『メイド・イン・メディナ』(00年)、『ライヴ』(01年)、『テキトワ?』(05年)といった名作を残している。

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